飲食男のブラックブログ

ブラック飲食に勤める男がブログを通してQOLを上げていく物語。詳しくは最初の自己紹介記事へ!

まずは自己紹介!このブログと自身について

 

 

ご挨拶

みなさんこんにちは!!

記事の閲覧ありがとうございます。

ブログは完全な初心者なので色々と拙いところもあるとは思いますが最後まで読んでいただけるとありがたいです。

  

当ブログについて

当ブログは飲食店に勤めて10年以上になる男が、労働時間に追われ、パワハラを受けたりしながらも豊かな人生を歩もうと試行錯誤する日々を綴るブログです。

何を大袈裟にと思うかもしれませんが労働時間本当に長いんです(笑)

みなさんが思っているよりも長いんです。拘束時間14時間とか当たり前にありますからね。最近はお国がうるさくなったので労働時間は短くなってきています(ありがたや)。

 

しかし労働時間8時間への道のりはまだまだ長そうです。。。

そんな飲食店に勤めていると所謂ライフワークバランス崩れがちになってしまいます。

実際私もまだこの業界に慣れてい若い時期は毎日血反吐はく思いで出勤し、仕込みに追われ、営業にやられ、休憩もなく、掃除片付けをし、明日の準備などをこなし、深夜日付が変わった頃にようやく家に帰り、また朝早くに出勤するという生活をしていました。

 

月に4日か5日あった休みのうちの一日は任意参加という名の強制参加だった料理講習会に出て貴重な休みの一日を潰されるという、なんの嫌がらせかわからん仕打ちを受けて、他の休みの日は体力回復のためひたすら寝る。

 

そんでもって例に漏れることなくちゃんと嫌味な上司も存在していました(笑)

 

そんな生活を一年くらい続けていたら普通に精神壊れかけて塞ぎ込んだり、かと思いきや怒ってきた上司に普通にキレ返したり(笑)。プライベートもうまくいくはずもなく、荒れた生活を送っていました。あの頃は本当にまともな精神状態じゃなっかたですね。

 

それでもなんとなくこの業界で続けていくうちに精神的にも体力的にもタフになり、今では立派に飲食人になってしまいました(笑)

今では料理や飲食店の面白さや楽しさに気づけて、それなりに仕事もできるようになり、まだぼんやりしているけど目標もできて、ちょっとずつ充実してきました。

まあここに来るまで10年かかりましたけど(笑)

 

何回か転職を繰り返し労働時間もだんだんと短くなってきてはいるものの、まだまだホワイトには程遠く、自分の趣味や娯楽などのプライベートに割ける時間は限られています。

 

当ブログの主目的

さあ長くなりましたがこのブログの主目的。それはこのブログを通して自身の人生を豊かにすることです!どうやってブログを通して人生の豊かさQOL=Quality Of Life)を上げていくのかは正直まだわかりません(笑)

 

ただ私は友達もいないくて、日々あった出来事や自分の考えや主張を発信する相手もおらずモヤモヤすることもあるので、そんな時にこのブログに書き殴っていこうかなと思います。半分ストレス発散かな(笑)

 

でもただの備忘録や日記みたいなのだと面白くないので、自分が買ってよかったモノの紹介や、飲食小咄・裏話などなどみなさんの暇つぶしになるようなことも書いていくつもりです。

 

ブログの内容などを知りたい人はここまで。

以下は私に少しでも興味があったり、暇な人だけ読んでください。

でも読んでくれたら今後の記事の理解度が高まるかも(笑) 

 自己紹介

ここまで読んでいただき本当に感謝です。

みなさんもここまできたらそろそろ『てかお前誰やねん』と思うところでしょう。

ではようやっと自己紹介を。あんまり自分の人生を振り返ったことないので、人生の棚卸し的感覚で書いていきます。

 

生まれてから中学卒業まで

なんてことない地方の、なんてことのない両親の元に生を受ける。性別は男。血液型はA型。乙女座。

 

そして私の記憶は小学校高学年あたりから始まる(笑)

 

小さい頃のことは薄ぼんやりとしか憶えてないです。憶えていることは両親が離婚したことと、保育園の時に被っていた帽子に大きな蛾が止まっていてめちゃ怖い思いをしたことくらいです。おかげでそれ以来大の虫嫌いです。

ちなみに両親の離婚の原因は父親のDVと浮気です。記憶が確かであれば。

まあよくある理由ですね。

 

幼いながらも母親が暴力をうけていた事や、父親がいる時の食卓のピリついた空気感は今でもぼんやりと思い出せます。

 

あ、あともう一つ思い出しました。

 

小さい頃うまく箸が握れなかった僕に母親が怒って、自分が持っていた箸を私に向かって投げて、運悪くそれが私の右頬にクリーンヒットして突き刺さったという事件。

今考えても、苛立つ気持ちもわかるけど投げたらあかんやろと思います(笑)

おかげで箸は上手に使えるようになりました。ありがとう。

 

まあなんやかんやと小学校はそんな感じにぼんやりと過ぎて行き、普通に学区の公立中学に入学。

ここで一つ自慢話。

私は小学校、中学校共に一回も夏休みの宿題をだしたことがありません!!

自慢話かどうかはよくわかりませんが、とりあえず事実です。

 

その頃は『なんで家帰ってからも勉強せなあかんねん。義務教育は学校の中だけでええ』という今思えばクソガキ丸出しの理論に基づき、ほとんどの宿題を出すことはありませんでした。自分が気に入ったものだけはやったかな?(笑)

勉強はそこそこ人並みにはできたんですが、おかげで内申がひどいことになっていました。

それはちゃんと高校受験の時に自分に跳ね返ってきたわけですが。。。

 

私生活の方はというと、とにかく経済的に困窮していましたね。やはり父親と離婚して、母親に引き取られたこともあり厳しい生活でした。母親一人で私と姉の二人とネコ二匹を養っていくわけですから。父親からも幾ばくかの生活費は貰っていたとは思いますが、それが幾らくらいだったまではわかりません。

 

お金がないと本当に困るのはご飯ですね。

 

ひどい時は学校がある平日は給食しかご飯がなく、朝も夜も食べずに一日が過ぎたり。

もっとしんどい時は夏休みなどの長期休暇のとき。

 

頼りの給食もないので母親からその日の食費としてお金をもらうわけですが、それは1000円。私と、姉と、ネコ二匹あわせて1000円。食べ盛りにあんまりですよ(笑)

 

大体私が先に自分のご飯を買いにいくのですが、その時に自分のご飯と一緒にネコ二匹のご飯も買うんです。まあネコはカリカリとお水さえあれば生きていけるのでそんなに高いものではないのですが、なんせ1000円。私と姉で割って一人500円。

だけど私とネコ二匹のご飯をあわせて何故か500円。理不尽ではこれは!(笑)

 

さらに姉が理不尽なのはその500円で私がご飯を買って余ったお釣りを渡せというのです。おかしくないですか?今でも納得が行きません。姉は500円プラス私のお釣りで自分のご飯を買ってくるのです。

 

『小さなことで(笑)』と笑うかもしれませんが、当時の私にとっては生きるか死ぬかの死活問題なんです。

当然姉とはしょっちゅう喧嘩していてめちゃめちゃ仲悪かったです。

 

あ、ちなみにその1000円を渡されるのは二日に一回有るかないかで、無い日は普通にご飯抜きでした。二日くらいご飯食べれないなんて日もザラにありました。

人間二日もご飯食べないと、ようやく食べれる時になっても胃が縮こまったのか、ご飯を受けつけなくて全部戻しちゃうんです。

できればこんな経験二度としたくないですね。

今は自分の稼いだお金で贅沢はできなくてもとりあえず毎日ご飯は食べれてます。当たり前のことなんですけどね。でもできることなら今稼いでいるお金を過去の自分に月1万円でも良いから仕送りできればなと思います。(笑)

もちろんそのお金は私とネコたちのためのものですよ←

 

 

さて時は飛び。。。

 

高校入学から卒業まで

 

前述したとおり私は中学時代ほとんど宿題を出していなかったので本当に内申点引くほど低かったんです(笑)

まあ授業中寝たりしたのもいけなかったのかもしれませんが←

 

なので当然行きたい高校を選べるわけもなく、ここなら行けそうとなった高校がまさかの私学しかなく、、。

 

元々母親の経済力では私を高校に行かせる余裕はないことは分かっていたので、姉がそうしたように私も元父親にお願いをしてなんとかその高校に行かせてもらったのです。

 

その高校は地元ではちょっと有名なレベルのバカ高で、偏差値は40くらいだったような?

しかし私は宿題を出さなかったり、授業態度が悪かっただけで勉強ができないわけではなっかたので、入試の成績によりそのバカ私学の中でも少しマシな特進クラスに合格しました。

ここが人生のターニングポイントですね。

もし普通科にしか行けなかったらその後の大学にも行かないし、飲食にもきっといなかっただろうなと思います。

 

高校に入ってからは真面目に勉強しました。

当然宿題も出しましたし、授業も真面目に聞きました。エヘン。←

 

当たり前のこと事なんですが高校には当然お金がかかってくるわけで、しかもバカすぎて私学にしか行けなかった私は公立より倍くらいのお金がかかっているわけです。

 

そんなお金を出してくれた父親には感謝していましたし、頭が上がらなかったです。

 

親なんだから当然だと言われればそうなんですが、今自分が稼いでいるお金で子供二人高校に行かせることなんてとてもじゃないけどできません。DVしたり浮気したりクソみたいな父親ですが、文句も言わずにお金を出してくれて本当に感謝しかありません。

 

さて肝心の勉強の方なんですが、特進科だった事や愉快なクラスメイトたち、強烈な印象の担任教師(後に記事にします)のおかげもあり、良い感じに成績も伸びて行きました。

 

二年の終わりくらいには高校に入った時に父親から『大学いくなら国立しかお金は出さん』という約束も射程圏内に入ってきました。

 

途中猫が一匹脱走したり、私が生まれる前からいた猫が天国に行ってしまったりなどもありました。猫たちのことは別記事で書こうかなと思います。

 

その頃母親は何していたかというとパート先で知り合った男とデキては別れ、デキる度にそいつの家に転がり込んで家には平気で一月くらい帰ってこないという、父親も顔負けのクソっぷりを発揮していました。本当うんこみたいなやつです。

 

かなり軽蔑していました。そりゃあ母親も一人の女性なので仕方がないとは思いますが、子供にとって母親は生まれた時から死ぬまで母親だし、女性である前に母親である責務を果たすべきでは?と。今でもこの考えは変わりません。

 

そんな母親が赤の他人になった時。

 

大学の入学願書の話

 

受験したことがある方ならわかると思いますが、願書には受験者本人が書く欄と、その保護者が書くところがあるんです。

受験の頃には母親は当然の如く家にはほぼ居なかったので、当時デキていた男の家までわざわざ願書を持って行き、書いて欲しい期日も伝えて渡したんです。

 

そしてその期日がきた日その男の家に取りにいく前に念のため母親の携帯に電話したんですが、まさかの無視。何回かかけ直すも無視。そして挙げ句の果てには着信拒否までかましてきました。

 

私はブチギレ状態で学校帰りに一時間自転車を漕ぎ、件の家へ。

チャイムを2、3回鳴らすとようやく母親が。

あの時の態度たるや。願書を請求するとまだ書いていないという。意味わかりませんね。十分な時間はあったはずなのに。『後で書くから帰れ!』と言われるも書いてくれるまで当然帰るつもりのない私は当然拒否。

 

そこから書け、書かないの無駄な問答ののち、渋々玄関先で書かせてようやく書き終わった時には夜10時ごろ。ずっと玄関にいて寒いし、立ちっぱなしで疲れ切っていました。

 

そしていよいよ願書を受け取ろうとした時に母親はその汚い字で書き殴った願書をグシャリと握りそれをそのまま玄関から私の頭上越しに外へ投げ捨てました。『二度とくるな』という捨て台詞と共に。

 

パラパラと舞う願書たち。3時間寒い中立ちっぱなしで疲れた私。母親のあの時の顔。落ちた願書たちを一枚一枚拾い集める。シワになった箇所を件の家のドアに擦りつけながら必死で伸ばす。泣きながら。なんか悔しくて。悲しくて。怒りで。訳わかんなくなって。

 

帰り自転車を漕ぎながら、叫びました。何を叫んだかは覚えていないけど。

子供の人生にとって、とっても大事な紙なのにこんな風にする意味が全く分からなくてすごい考えました。

そしてとある結論に至ったのです。

 

あの人にとって私は子供じゃないんだと

 

これで納得行きました。赤の他人同士だったんだと。なら仕方がありません。だって他人なんだから。

よってこの後母親が私の物語に登場することはありません。

やったね←

 

そう思うと父親の方がよっぽどちゃんと親でしたね。

 

そして大学へ

 

そして高校卒業と同時に約束通り国立大学に入学となりました。残念ながら志望していた大学よりはワンランク落ちますが、まあ自分の限界だったのかなと受け入れています。

電話で大学合格の報告をした時の父親の嬉しそうな声は今でも忘れられません。

 

 この時期の私生活は高校入学のことや大学のことなどで父親と密に連絡をとっており、苦しい時には父親に経済的に支援してもらい、とりあえず毎日ご飯を食べれるようになりました。

 

一方姉はそんな家庭だからか例に漏れなくしっかりグレました。せっかく入った地元の公立高校も1年でやめ、当時付き合っていた彼氏(後の夫、後に離婚)の家に転がり込み滅多に家に帰ってこなくなりました。この親にしてこの子あり

 

普通なら『姉ちゃん何してんねん』と思うかもしれませんが、不思議とそんな感情は湧かず 、むしろ『なんかおめでとう』という気持ちになったのを覚えています。

 

きっと彼女なりにこのクソみたいな生活から抜け出そうと必死だったんです。

その行為自体は誇れるものではなかったものの私は彼女の選択を支持します。

特に姉が高校の夏休みの一月で、とある仕事で30万円くらい稼いできた時は尊敬すらしました。後にも先にも姉を尊敬したのはその時だけです。

 

そして主人公の僕なんですが、割と普通な大学生活を送ります。学校行って、バイトして、遊んで、、、。特筆することのない一般的な大学生です。

自分でいうのもなんですが、ここに至るまでが少し特殊な人生だったので、大学に入り『普通の人』になれたことがとても嬉しく、なんだか誇らしかったです。

 

特にバイトをして自分でお金を稼げることがすごく嬉しくて、アホ程バイトしました。サークルにも入らず、ずっとバイトしていました。夏休みなんかは20万円くらいは稼いでいました。豪遊しました。なんでこの時貯金するということを覚えなかったのか、、。

 

大学バイト〜飲食との出会い〜

 

はい。ここでようやく私と飲食が出会います(笑)

先ほどから行っているバイトとは居酒屋のバイトのこと。駅直結の海鮮居酒屋です。

私はお世辞にも仕事ができるタイプではなく、私をそのバイトに紹介してくれた先輩は社員から『何ちゅうやつ連れてきたんや』と言われるほど(笑)

料理長に名前を覚えてもらうまでに一年かかりました。

 

ただ前述したとおりシフトはほぼ毎日狂ったように入れていたので、流石に仕事にも慣れていき、先輩たちと同じくらいにできるようになった頃には料理長とも仲良しになっていました。お正月は実家にお招きいただいたり、一緒にダムを見に行ったり(笑)

 

そんな感じで忙しかったけどなんだかんだ楽しい飲食バイトでしたが、特にその時は飲食に対するこだわりなどはなく、あくまでも数あるバイトのうちの一つでしかなかったです。運命とかは感じなかったです(笑)

 

出会いは意外と静かなものです

 

大学中退から飲食フリーター

 

人生二度目のターニングポイント

 

はい。またしても時は飛び、大学三年生の前期。父親が倒れました。ただ過労で倒れたとかならしっかり休めば大丈夫なのですが、脳に損傷がありこのまま意識が戻らない可能性が高いと。所謂植物人間です。

 

本当に急なことだったので私はなかなか理解が追いつかず、どうすればいいのか分かりませんでした。現実が受け入れられなくて、ICUで横たわりいろんな管が刺さり、顔がパンパンに腫れている父親を目の前にしても不思議と涙とかは出ませんでした。

 

頑張って戻ってきて!とかいう気持ちも。何も。

 

今ここにいるのは自分の父親じゃない。そんな気がして。

 

そんな感じで数日が過ぎた後祖父から連絡が。内容は二つ。一つ、父親は意識は戻ることはない。二つ、大学はどうするか。

 

一つ目は覚悟していたことなのでなんとか理解できましたが、二つ目は正直ポカン?でした。

そこでようやく学費を支払ってくれていたのは父親であることを思い出したのです。

 

さてどうしたものか。時期は3年の前期終わりごろ。今から奨学金を申請して学校に通い続けるのもできる。普通の人ならそういう選択をすると思います。

 

しかし何を思ったか私は大学を辞めます。中退です。

私が入った大学は国立の教育学部です。そう私は先生になりたかったのです。宿題も出したことないのに(笑)

教師を目指した理由なんかはまた別記事にします。

 

大学を辞めるかどうかはあまり悩みませんでした。

 

教員に強い憧れを抱いていた私は大学の3年半ですっかり打ちのめされていました。

なんか思っていた教師像とは違う、と。

 

健常者なら多少の違和感はあったとしてもそれを受け入れながら前進すると思うのですが、脳内に異常がある私は中々その違和感を受け入れられず前に進めていなかったのです。

ちなみにこの脳内異常は現在も健在です(笑)

バカで頑固なので救いようがないですね。

 

そんなタイミングで父親が倒れたので『コレを機に』という謎の考えの元大学を辞めました。

 

ちなみにその後の父親のことは訳あってあまり知りません。生きているのかも、そうでないのかも。

 

というわけでめでたく大学中退フリーターになりました(笑)

 

さてどうやって生きて行こうかと。

 

先ほどから出ている居酒屋のバイトはまだ続けていたので、とりあえず食い扶持には困らない。家も大学入学から住んでいるマンションがあるので大丈夫。

 

居酒屋でのバイトも楽しいししばらくはなんとかなるかと思い、朝から晩までバイトして、寝て起きてバイトして、休日はアニメ見たり、ゲームしたり、、。絵に描いたようなグータラフリーターやっていました。特に目標もなく、ただなんとなく。

 

そんな生活が半年ほど過ぎた時、急に思ったんです。

 

『このままじゃいかんやろ』と。

 

そう思わせてくれたのは間違いなくその当時付き合っていた彼女で、後に妻となる女性。

彼女も当時はフリーターで、二人でのんびり付き合っていました。

 

でもこのままだと二人してなんの将来も見えんと思ったんです。

 

私一人ならそんなことも考えず、今でもその日暮らしを続けていたかもしれません。

しかし彼女とはもうそれなりに長く付き合っていたので、一人で生きていければいいやとは考えられず、とにかく『なんとかしないと』という思いでいっぱいでした。

 

そこで色々考えたんです。自分が何をやりたいかというより、自分に何ができるかを。

そう考えた時コレしかないと思ったのが飲食でした。

もうやるっきゃない、と。

自分は選べる立場にない。今自分にやれることを必死でやってみようと。

 

二人のために。

 

イタリアンとの出会い、どっぷりその道へ

 

簡単に飲食で働こうと思っても、ただのキッチン補助のバイトでしか無かった私は特段なんのスキルも無いのでどうしたものかと思いました。

 

悩んでいてもしょうがないので自分の好きな食べ物から選ぼう!というバカ特有の能天気な決め方に。

その頃の私は週に一度はピザーラでピザを頼むほどピザが好きだったので、安直にイタリアンを選びました。ピザとpizzaの違いも知らずに(笑)

 

そこで早速求人誌を開きイタリアンを探して見ると、あるじゃないですかいい感じのが。初任給が他のお店より1万円以上高い!距離もそんなに遠くない。なんかオシャレだし。そんな軽い気持ちで選びました(笑)

 

ちなみにこの頃はまだ飲食は『とりあえず』であり、自分の生涯の仕事として選んだ訳ではありませんでした。あくまでもフリーターとのケジメとして。

 

はい。面接やらなんやらを光の速度で済ました後、晴れて就職できました。

 

いつも思うんですけど、飲食の面接は有って無いようなものな気が(笑)

基本来るもの拒まず、去るもの殺す。こんなイメージ。これについてもまた別記事書こうかな。

 

就職して驚いたのは労働時間の長さ。

 

居酒屋は就職の選択肢に無かったのですが、理由は深夜まで働きたく無いから。

ただイタリアンに就職してみたらなぜか居酒屋よりも労働時間が長い。

朝は居酒屋よりも早く、夜は居酒屋より遅い。なぜだろうか(笑)

 

オシャンなイタリアンなんだからきっと素敵なシェフと愉快な仲間たちなんだろうなあ、と甘い期待を抱いて入りました。

 

が、実際にはシェフは『炭でも食べて育ったんかな?』と思うくらい腹黒で性格悪いし、

 

仲間たちは『強制連行で働かされているのかな?』と思うほど死んだ魚のような目をしていました。

 

しかも賄があんまり美味しく無い(笑)

居酒屋のおろしポン酢唐揚げ(通称おろポン)が懐かしかったです。

 

この時点で『え、飲食やばくね?』と薄々気づいてはいたものの、前述したとおりこの頃はあくまでも飲食はとりあえずの選択肢であって、また違う道が見つかったら変えるだけだし、自分が何もできない今は我慢しようと思い、なんと続けていました。

 

一度だけ飛びかけましたけど、連れ戻されました(笑)

 

そんなこんなで店舗移動をしたりしながら3年目の頃。

 

ある時急に

 

あれ?料理って楽しくね?

 

と気づいたんです。いや。気づいてしまったんです(笑)

 

今までは言われたことをやり、出来ていないと怒られ、なんでこんなことも分からないんだと罵られ、仕事が遅いと怒鳴られ、時に殴られ、本当に嫌で嫌で仕方がなかったのです。

 

しかし3年もするとある程度仕事も調理技術も最低限はできるようになり、自分で仕事の段取りを組んで、味などもわかってきて、仕事の幅が広がり、少しづつできるようになったからシェフからいびられることも減り、、。

 

気づいた時にはなんか楽しくなっていました。

 

ある程度業務ができるようになった時に料理そのものにこだわりが出てきて、『これはこうした方が美味しくなりそう』とか、『もっとシンプルで美味しい調理法があるはず』とか深く考えるようになってきました。

 

これはもうこの道で行くしかないっしょ!!

 

最初の転職、結婚、そして、、

 

突然ですがこのタイミングで転職します(笑)

周りにもようやくそれなりに認めてもらえるようになったこのタイミングで。

 

その当時勤めていたカフェスタイルの店舗の店長とものすごく折り合いが悪かったこともありますが、そんなことより大事なことが。

 

結婚をしよう

 

と。

 

先ほどからチラチラと出ている彼女とはまだお付き合いを続けていて、もう7年近くになった頃。

もうこんなに長く一緒にいてくれているのだからもういい加減責任を取ろう、と。

勿論突発的に思いついたことでは無く割と長いこと考えていたことなんです。

 

ただ自分の中で踏ん切りがつかなかった理由が自分の給与の問題。

 

実は3年以上働いていてただの一円も給料は上がらなかったんです(笑)

 

そりゃあ私の働き不足と言われればそれまでですが。にしても一円も上がらないっておかしく無いです?なんなら住民税引かれ出してからは手取り減っているんですけど(笑)

 

なので自分みたいな底辺給料の人間と結婚しても幸せにしてあげられるかどうか自信がなかったんです。

でもこのまま働いていても給料が上がる見込みはないし、、

 

そうだ転職しよう

 

と。

そこからは転職する旨とその理由の報告、そしてプロポーズ的なことを光の速さで済ましてめでたく転職、そして結婚しました。

 

今回の転職の条件は給料のアップと自身の調理技術を進歩させられる環境かどうか、の二点。

その二点にガッチリハマったのは通勤に一時間半かかるけど結婚式もやっているレストラン。ちなみにそこは和食もやっていました。

 

そのお店で狙い通り給料のアップと、自分の技術の向上ができました。

 

『なんでもやってみる』の精神で、自分には難しそうなことでもチャレンジしたりして二年目にはキッチンのマネージャーになれました。

 

それは決して私のスキルが人より頭抜けていたという訳では無く、単純に料理やレストランにかける思いが誰よりも強かったからです。

そういう社風だったのですね。

 

おかげさまでそのお店で培った技術や経験は今でも自分のベースになっています。

感謝しかないですね。

まあ結局転職する訳ですが(笑)

 

この辺りの時期になってくると現在とも近くなってきて、まだ心の整理がついていないことや、大人の事情でかけないことも増えてきます。

 

なんの脈絡もなく発表しますが、

 

3年近くの結婚生活の末、離婚しました

 

理由は色々あるのですが、多分僕が悪いです。

 

小さなすれ違いがいつの間にか大きくなっていて、風船みたいにどんどん膨らんできて、でもそれは何かきっかけがない限りは割れなくて、ついにその時がきた。

という感じですかね。

 

まだ自分の中で消化し切れていない事なのでこんな感じで許して(笑)

また落ち着いてきたら書きます。

 

二度目の転職

 

離婚を機に環境を変えようかなと。そんなに遠くなくてもいいからここじゃないところへ行きたかったんです。

今回の転職の条件は特になし。給料がアップすれば嬉しいけど、それよりも転職までスムースに早くいけることの方が大事でした。

 

なんせ転職時期はなんと12月

 

飲食に限らずどの業界でも一番忙しい時期。

 

こんな時期に求人なんてないだろうなー、と思っていたら運よくありました(笑)

 

実際に転職できたのは年明けからですが転職活動自体は年内に終わり、働き始めてから一番ゆったりした時間があった年末年始でした。

精神状態はボロボロでしたけど。

 

そしてこの転職。結論から言うと失敗です。

 

なんで失敗したかと言うと条件が給与アップとスピード感だったからです。

転職先はカジュアルイタリアン。聞こえはいいけど片足居酒屋に突っ込んだような経営スタイルのお店。

 

イタリアンが楽しくなって、1万円のコースなんかで技術も磨いてきたところに、カジュアルイタリアン。そのギャップについていけませんでした。

イタリアンなのにアヒージョを作るたびに

 

ああこのまま私は料理人として腐っていくんだな

 

と思い、どんどん心が荒んできました。

 

勿論カジュアルイタリアンが悪い訳でも、ましてやアヒージョが悪い訳じゃないです。アヒージョ好きだし、バルに有ったら絶対に頼みます。

そう言うことではなくて、

 

あまりにも自分のやりたいことと違いすぎる

 

という部分。

時が経てばそれも受け入れられるようになると思っていましたが、むしろどんどんその違和感に耐えられなくなってきてしまったんです。

 

ここまで読んできてそれなりに僕のことを理解してくれている人はわかると思いますが、そうなんです。私こういう違和感スルーできないタイプのバカで頑固なやつなんです(笑)

 

しばらくはお金のために続ける訳ですが、、、

 

お別れと転職

 

3回目の転職をします(笑)

飲食続けている人の中でも3回も転職する人は珍しいんじゃないですかね?

 

今回も転職を決めたきっかけがあります。

さっき書いたとおりやりたいことじゃないということも大きいですが、それでも給料は良かったので我慢しようと思ったんです。彼女のために。

 

そうなんです。その時付き合っていた人がいたんです。

その人は自分の離婚したことも、生い立ちも、私という人となりを全て受け入れてくれて一緒にいてくれました。

私もその気持ちに答えるように真剣に交際していました。

当然結婚も視野に。歳も歳ですしね。

 

ただ気持ちの面でタイミングが合わないことがあったり、相手に多くを求めすぎたり、独りよがりになってしまったり。うまくいかないことがどんどん増えてきてしまって。

 

お互い愛しているのに一緒にはいられない

 

そういう結論に至ったんです。

 

どっちが悪いとかいうのは決める必要はないけどやっぱり私が悪かったような気がします。

 

やっぱり一度離婚していることもあり、このままじゃダメな方になるとか、彼女に色々と強いてしまうこともあったり。型にはめたかった訳ではないけど、結果としてそういう風に受け止められてしまうことがあったり。

 

と、これもまだ心の整理がついていないところではあるので、なんだか傷心ポエムみたいになりそうなのでここでやめておきます(笑)

 

という訳で彼女と別れたことにより、給料は自分一人で生きていける分だけで良くなったんです。

 

だったら給料下がってもいいから自分のやりたいことをやろう

 

そこから転職活動をまたする訳ですが、時はコロナウイルスの真っ最中。

みなさんご存知のとおり飲食はコロナの影響をモロに受けました。

 

売り上げが下がっていて自店舗のスタッフを養うのに必死になっているのに、新しい人間を雇う余裕なんかあるところなんかある訳な、、、ありました(笑)

 

もはや奇跡ですね。巡り合わせとしか言いようがないです。

 

そこはディナー客単価1万円以上の高級レストラン。

私の実力では背伸びして、限界まで手を伸ばしてやっと届くようなところ。

まさに理想のレストラン!

と、今現在は思っております(笑)

 

というのもこの記事を書いている今はまだ正確には転職は終わっていないんです。

 

今は現職の休みを利用してそのレストランでバイトとしてお邪魔させて頂いている状態。12月から正式に社員として働くことになっています。

 

ただいきなり12月からバリバリに働くのは難しいのでバイトして少しでも慣れようと言う期間です。

ついでにバイト代もゲットだぜ!って魂胆です(笑)

 

この転職により給料は下がります。一時的ではあると思うんですが。

この転職により休みが減ります。公休8→5

よって月の労働時間が長くなります。220時間→300時間

 

でもやりたい料理ができるんです!!!

これにつきますね。

 

飲食人も突き詰めるとここまでくるんです(笑)

 

ちなみに飲食で月220時間は少ない方ですよ!

300もザラにありますよ!

 

現在

 

と言うことでやっと現在です。

今は前述した通りに休みにバイトしながら慣らしているところです。

彼女とも別れ、なんだか身も心もある意味スッキリした気持ちです。

一刻でも早く新しいレストランでバリバリに働きたいと言うやる気に満ち溢れています。

 

小さいけどいくつか目標もできたので少しずつ進んでいきたいです。

このブログもその一歩なんです。

目標が近づいてきたら発表します。

達成できなかった時恥ずかしいので(笑)

 

最後に

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。読破までもう少しですよ(笑)

 

長々と書きました。自分の半生を文章として書き出して振り返る経験は初めてなので不思議な気持ちです。なんだかちょっとスッキリしたような。

大した人生でもないし、何か大きなことを成し遂げたことがある訳でもありませんが、自分なりに生きてきた証ですしね。それなりに誇っていこうかなと思います。

 

この記事が人生初のブログ記事です。

こんなに文章打ったの初めてです。疲れました(笑)

 

なおブログ初心者でまだまだ下手っぴなので、この記事は時折加筆・修正いたしますのでお許しください。

 

ここまで読んでくれたあなたに幸せが訪れますように。。